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1919(大正8)年、実業家・内田信也が母の療養のために建てた別荘として、起雲閣の歴史は始まります。その後、1925(大正14)年に根津嘉一郎が敷地を拡げ、洋館の増築と庭園の整備を行い、現在の起雲閣へとつながる優雅な別荘が形づくられました。さらに戦後の1947(昭和22)年からは旅館「起雲閣」として開業し、1999年まで多くの人を迎え入れています。三人の所有者によって大切に受け継がれてきた邸宅には、日本家屋の静かな美をたたえる和館と、日本・中国・欧州の装飾・様式を自在に融合させた洋館が並び立ちます。大正、昭和、平成、そして令和へ──。四つの時代を経てきた建物には、それぞれの所有者のこだわりと、百年を超える時間の深みが静かに息づいています。
和館「麒麟」は、内田信也が車いす生活となった実母の静養のために建てました。三方を畳廊下が囲む入側造りなど、段差なく移動できる先進的な工夫が随所に見られ、母への深い思いが形となっています。床柱を設けない「釣り床」の床の間には、旅館時代に書家・田山方南が揮毫した「龍起雲」の掛け軸が残り、静かな品格を添えています。金沢・成巽閣の青漆喰を思わせる群青色の壁や、建築当初の100年前のガラスがつくるゆらぎも魅力です。旅館時代には宿泊として使われることもありましたが、結納など“ハレ”の場として利用されることが多かったといいます。簡素でありながら、細部に上質さと温かな思いが息づく空間です。
和館「麒麟」の2階にあたる「大鳳」は、内田信也の別荘時代、玄関が突き出した造りで、現在の靴箱の位置には納戸、パンフレット棚の位置には書生部屋があったという、当時の暮らしぶりを伝える一室です。建物は1階が栂材、2階は木目の力強い“古代杉”といわれる杉材が使われ、天井からもその表情がよくわかります。2階では竹が意識的に使われ、欄間や障子の桟、書院にまで節の意匠が生かされています。無双窓や軒桁の面取りなど、職人の細やかな技も随所に残ります。室内を包む深い紫色の壁は、麒麟の群青、離れの紅殻とともに金沢ゆかりの色彩文化を受け継ぐもの。ガラス窓には大正期のものが残っています。1948(昭和23)年には太宰治や山崎富栄、山本有三・志賀直哉・谷崎潤一郎らが宿泊した記録もあり、文学史の気配が漂う部屋です。
1919(大正8)年は、第一次世界大戦が終結へ向かい、パリ講和会議が開かれた年。日本では銀座や上野に木製の信号機が初めて設置されるなど、新しい文化や技術が登場しました。当時の熱海へは、小田原から蒸気機関車の軽便鉄道で向かっており、所要時間は2時間20分ほど。駕籠では6時間かかった時代からすると大きな進歩でした。当時の熱海は、温泉リゾートでありながら、政財界の要人が社交の場として集う場所で、御用邸の造営から後は、人気の別荘地になっていました。1919年の「熱海」に住むことは、庶民では手に入りにくい贅沢であり、ステータス。そうした背景の中で起雲閣はつくられました。
起雲閣の表門は、薬医門(やくいもん)とよばれる造りになっています。薬医門は、鎌倉時代末期・室町時代初期の武家または公家の屋敷などに現れた門形式のひとつで、後に城郭や寺社などにも使われるようになりました。二本の本柱と二本の控柱で、女梁(肘木)と男梁(腕木)を受け、内法高の位置で冠木を貫き、上に「切妻」と「入母屋」の屋根を架けています。
「玉姫の間」に併設されたサンルームは、大きな窓と天井のステンドグラス、色鮮やかなタイル床が印象的な空間です。ステンドグラスは国会議事堂も手がけた宇野澤ステンド硝子製作所によるもので、欄間には大変珍しい“マド貝のステンドグラス”がはめ込まれています。床には京都の泰山タイル、壁には多孔質のトラバーチンを用い、貝片を散りばめた目地が輝きを添えています。植物や曲線をモチーフとしたアール・ヌーヴォー、幾何学的なアール・デコなど、20世紀初頭の世界的潮流が反映されている点も特徴です。さらに、庭側の大窓には紫外線を透過する英国製ヴァイタガラスが使われ、日光浴が健康法として重視された当時の時代背景も感じられます。玉姫は、玉渓と合わせてスイートルーム化され、使用されました。
玉姫の本間は、左右対称の美しい構成をもつ“無国籍の間”として知られています。一見すると大理石の暖炉が印象的なヨーロッパ調の部屋ですが、床には箱根の寄木張り、天井には桃山風の折上格天井を採用し、蟇股や斗肘木など和の建築意匠も巧みに取り入れられています。天井に張られた金唐皮紙は、17世紀のヨーロッパから伝わる金唐皮を和紙で再現した貴重なもの。暖炉上部には中国で吉祥を表す「喜」の文字が彫られており、東西の文化が自然に溶け合った独特の雰囲気をつくり出しています。また、壁とカーテンは「蜀紅錦」の文様を復元したもので、原品は隋・唐時代に遡る由緒ある文様です。多国籍の意匠が調和した、起雲閣を象徴する華やかな空間です。
「玉渓」は、中世英国のチューダー様式を基調とした山小屋風の洋室で、外に木製フレームを見せた構造や、暖炉を中心とした“イングルヌック”が特徴です。しかし根津嘉一郎は、この空間を日本の「床の間」に見立てていたようで、暖炉脇には古い寺院の古材とされる柱、天井には燻し竹、床の間飾りには中央アジア風の意匠を置くなど、多文化が自然に共存しています。柱には名栗仕上げが施され、茶室的な感性も重ねられています。また、窓には滑車と錘を用いた仕組みが隠され、東武鉄道の創始者である根津が鉄道技術を応用したともいわれます。入り口脇のアメリカ・YELL社製のドアノブは、当時のものが唯一残る貴重な部品です。別荘時代は応接間、旅館時代には畳敷きの客室、平成以降は玉姫と併せて、スイートルームの応接として使われました。
「金剛」は、根津嘉一郎が起雲閣を購入して最初に建てた建物で、1929(昭和4)年に完成した当時は独立した洋館でした。玄関は現在の石張り廊下付近にあり、居間とサンルームで構成されていました。床には瀬戸の山茶窯製タイルが用いられ、銀座「ビヤホールライオン」と同じ窯のもので独特の風合いを見せます。サンルームのステンドグラスは復元されたもので、別荘時代は天窓であったと伝わりますが、当時は隣に建物がなく、より明るい空間だったようです。メインルームの特徴は、暖炉前の梁に施されたハート、クラブ、ダイヤなどの螺鈿細工。さらにステンドグラスは中国の吉祥文様「双喜紋」を図案化したもので、研究者によれば最も丁寧な仕上がりだといいます。暖炉右手の一枚は上下が反転しており、遊び心ある意匠が感じられます。
洋館「金剛」に併設された「ローマ風浴室」は、当時“金剛”に宿泊した人だけが利用できる専用浴室でした。1989年の改築で多くが現代の素材に置き換えられましたが、ステンドグラスの窓やテラコッタ製の湯出口など、建築当初の要素が今も残ります。浴槽の周囲には滑りにくく保温性に優れた木製タイルが敷かれ、当初は畳敷きの脱衣室・化粧室が合わせて9畳分設けられていました。“根津温泉”と呼ばれた湯は蛇口ではなくタイル目地の小さな穴から流れ込み、成分で目詰まりを起こすこともあったといいます。浴槽が2つあるのは「熱め」「ぬるめ」に分けていた名残。ステンドグラスは万年青を図案化したもので、東京駅のステンドグラスも手がけた三崎雍府によるデザインです。
1930年前後の熱海は、交通網の整備によって急速に発展した時代でした。旅館・ホテルの数は1917(大正6)年に約50軒であったものが、1928(昭和3)年には106軒に増え、1935(昭和10)年には一気に530軒に達しています。大きな転機となったのが、1925(大正14)年の国鉄熱海線の開通で、アクセスが飛躍的に向上しました。さらに1934(昭和9)年、丹那トンネルが開通したことで、関東だけでなく関西方面からも多くの人が訪れるようになりました。これらの鉄道開通が、熱海を大きく発展させる原動力となったのです。なお、丹那トンネル開通時の鉄道大臣は、起雲閣の初代所有者である内田信也でした。
「孔雀」は、内田信也別荘の一部として麒麟・大鳳と同じく、車いす生活となった母のために設けられた建物です。麒麟の群青色に対し、こちらは温かみのある弁柄色の壁が特徴で、落ち着いた和の趣を漂わせています。別荘時代は客間、旅館時代にはトイレと風呂を増築した特別室として使われました。もとは母屋に隣接していましたが、解体せずに「曳家」の技術で現在地まで移動され、池を越える大掛かりな移動も行われました。建築的な見どころは多く、床の間には北山杉の絞り丸太を床柱として用い、付け書院や小障子には紫檀・桐など多彩な木材が使われています。五間(約9メートル)に及ぶ一本丸太の軒桁や、継ぎ目のない一枚板の床板も圧巻で、当時の贅沢な材使いが今もそのまま伝わる一室です。