熱海について
東京から新幹線でわずか40分。相模湾を望み、背後に山を抱く熱海は、海と温泉と自然が調和する日本屈指の保養地として知られています。 その歴史は古く、奈良時代に書かれた「伊豆国風土記」には、湯に身を浸すとどんな病気も治る"神の湯"として描かれるなど、温泉への信仰が街のはじまりでした。 その後も、鎌倉幕府を開いた源頼朝は神威の源を「走り湯」とする伊豆山神社を崇敬し、江戸幕府を開いた徳川家康もまた、熱海の湯を"万病に効く霊泉"として愛し、その思いは、湯を江戸城まで運ばせる「御汲み湯」として引き継がれ、熱海は将軍の湯治場として"癒しと格式"を併せ持つ温泉地となっていきました。
江戸時代の大湯(出典:『熱海温泉図彙』山東庵京山 編
それは武士の時代が終わり、近代がはじまる明治以降も続きます。明治維新の立役者たちは熱海を気に入り、日本初の内閣総理大臣となった伊藤博文は、国の運営を決める熱海会談を行いました。 また、政府の要人たちは、いちはやく近代科学をもたらします。そのひとつが現在、熱海市役所が建つ場所にあった日本初の公的温泉療養施設「噏滊館」。 もうひとつが、温泉と運動の相乗効果を期待されてつくられた熱海梅園です。 他にも、西洋で最新の健康法であった海水浴が、いち早く熱海の海にも取り入れられるなど、格式があるとはいえ、ただの湯治場だった熱海を科学的な療養を行える近代的なリゾートへと変貌させたのです。
熱海梅園の図
それは当時、鎌倉や湘南、沼津、興津といった海沿いの別荘地が人気だったなかで、熱海以外は鉄道も通り、利便性に優れているにもかかわらず、とりわけ熱海の人気が高かったことからもわかります。また、長い湯治場の歴史があり、店舗も多く、食料品などの生活物資が手に入りやすかったことも人気の一因だったようです。そして、その強みが、明宮嘉仁親王(後の大正天皇)の御用邸造営へとつながります。御用邸が誕生したことで、日本初の市外電話をはじめ、電気や鉄道などのインフラ整備が進んでいきます。 その頃の熱海は、上流階級の静養と社交の場となったことから別格の別荘地と呼ばれ、それがいまに続く花街文化の隆盛につながりました。夜な夜な響く芸妓の唄や踊り、三味線の音は、街をさらに華やかさにし、その優雅な艶やかさは作家をはじめとする文化人たちも魅了し、創作活動の場としてだけでなく、尾崎紅葉や芥川龍之介は熱海を舞台にした作品も残すなど、"静養と歓楽""知と美"が共存する熱海へとなっていったのです。
旅館時代には日本を代表する文豪も宿泊した当時の起雲閣 ©清水建設株式会社所蔵
"知と美"が同居する熱海文化は、今も文芸作品や花街の芸から垣間見ることができますが、数多く残る別荘建築からも、時代の香りを感じられるはずです。例えば、世界的に有名な建築家であるブルーノ・タウトの日本唯一の作品である旧日向家別邸や横山大観が名付けた「大観荘」などは、今も見学あるいは宿泊することができます。そして、三菱・住友両財閥の邸宅とともに、熱海の三大別荘のひとつである海運王・内田信也によって建てられた「起雲閣」もまた、現在、熱海市が管理する文化財として広く公開されています。大正時代につくられた豪奢な別荘として、戦後は高級旅館として、時代をリードする人々から愛された起雲閣は、熱海という土地が紡いできた"歴史と文化の香り"を、今に伝えてくるはずです。