人と時代をつなぐ、起雲閣の物語

江戸時代、将軍の湯治場として人気の高かった熱海は、明治になっても薩長をはじめとする当時の権力者たちに愛され、1888（明治21）年には、後の大正天皇の御用邸が造営されます。その結果、政財界の要人や華族といった上流階級の人々がこぞって別荘を建設し、熱海は、静養だけでなく社交の場として注目されるようになりました。そうしたなかで、1919（大正8）年、世界中でスペイン風邪が流行しているさなかに、第一次世界大戦時の船舶需要で巨万の富を得て、海運王と呼ばれた内田信也が、母の療養を目的にした別荘「起雲閣」を建てます。波の音が間近に聞こえる場所に建てられたこの別荘には、日本各地から取り寄せられた銘木や当時はまだ珍しいガラス窓が使われ、足の不自由な母のために座敷をバリアフリーにするなど、贅を尽くしながらも優しさの詰まった日本家屋になっています。よほど心を込めたからか、津波などの甚大な被害を及ぼした1923（大正12）年の関東大震災でも、倒壊することなく、今にその姿を残しています。

その後、内田とその母が東京に移ったことで、1925（大正14）年、起雲閣は鉄道王といわれた根津嘉一郎の手に渡ります。ちょうど100年前のこの年は、ラジオ放送が開始され、国鉄熱海線が開通し、東京との距離が近くなった年でもありました。根津は敷地内で温泉を掘削し、庭園を拡張、洋館も新たにつくります。茶人としても名高い根津は、庭づくりにこだわり庭に置く伊豆石を自ら探し、庭に運んだため、江戸城の石垣として使われなかった「残念石」をはじめ、近くに住む坪内逍遥が「道いっぱいの迷惑」と日記に書くほどの大きな石を運びました。また、彼がつくる洋館は、ローマ風の浴室に、アールデコ、アールヌーボー様式のステンドグラス、中央アジアや中国、日本の美意識が融合した装飾や意匠を備えるなど、蒐集家としても著名な根津の国際的な感性を物語るものになっています。

戦後の1947（昭和22）年からは、起雲閣は政治家で、金沢の湯涌温泉の経営者でもあった櫻井兵五郎によって旅館として再出発しました。風格ある建物を生かしたこの旅館は評判を呼び、文化人、とくに文豪たちが訪れるようになり、再出発した翌年には『人間失格』を執筆していた太宰治が宿泊し、同じ月に、谷崎潤一郎と志賀直哉、山本有三が鼎談を行うなど、文化サロン的な役割も担いました。その後も、市街地ながら喧騒とは無縁のゆったりとした空間が、創作意欲を掻き立てるのか、定宿にする文人は多く、日本の文芸史においても作家たちの“心の静養地”として記憶されています。

しかし、時代は移り、1999（平成11）年に旅館としての幕を下ろした起雲閣。取り壊しの危機に陥りますが、市民ボランティアの保存活動によって守られ、現在は文化施設として新たな道を歩んでいます。日本に自由と民主主義が芽吹いた大正時代に建てられ、厳しい戦争も乗り越え、戦後は旅館として文豪たちや政財界の人たちに愛された起雲閣は、100年以上に渡るその歴史の記憶を、今も我々に語りかけてきます。